知らなかった、じゃ済まされないことぐらい分かっていたけど別に知りたくなくて知らなかったわけじゃない。知りたかったけど知らなかったんだ。其れを知ったのはあの人がいなくなった随分後の事であの人の存在が世の中から忘れ去られようとしていたころだった。
指を鍵盤に置く。 鍵盤の冷たさが指に伝わってくる。あの人はよく「鍵盤が冷たいと指が動かない」と言っていたけど本当だ。鍵盤に置いた指は、冬眠から覚めたばかりの蛙のようにしばらくじっとしていた。じっとしているだけじゃ暖かさは戻らないことは分かっていたけど動かせずにいた。
(あの人はこんなに冷たい鍵盤をいつも叩いていたのか)
ためしに人差し指で鍵盤を叩く。ボーン、と其れは音を成してまるで波の様に反響を残して消えた。
(あの人はこれが好きだったのか)
あの人は「ピアノの音が反響するのを聞くとね、落ち着くんだ」と言っていた。実際あの人が弾くピアノはいつまでも、どこまでも長い時間反響していたような気がする。あの人が弾くピアノはすごく繊細で滑らかで真似できない技だった。
深呼吸をして改めて鍵盤に10本の指をのせる。
≪La Fantasque / G.Concone≫
楽譜台に置かれ広げられた楽譜にはそう記してあってその下に音符がいくつも並んでいた。あの人は「コンコーネはね、思ったより弾きやすい」と言っていたけど本当なのか。複雑に連なった音符を見る。ところどころにあの人が残した印がついている。鉛筆でガリガリと丸をつけていたりなにやら英語で書き込んでいたり。それが何を意味しているのか分からなくても、大事なんだということは分かった。
一つ息をして楽譜通りに指を動かしてあの人がよく弾いていたこのコンコーネを弾いた。音はあの人みたいに綺麗じゃなかったしあの人のように繊細で滑らかな音じゃなかったしどこまでもいつまでも反響するような音じゃなかったけど、それでもあの人が弾いていたコンコーネを弾いた。
「La Fantasqueは幻想家という意味なんだ。幻想家・・・ロマンチックだね」 「この曲は大きく3つに分けられるんだ」 「コンコーネは何を思ってこの曲を作ったんだろうね」
あの人が言うようにロマンチックには弾けなかったけど、どこで3つに分けるのか分からなかったけど、コンコーネがどんなことを思って作ったのか分からなかったけど、それでもあの人が弾いてたコンコーネを弾いた。
コンコーネの遺書 ≪La Fantasque≫
好きだったこの曲を遺書変わりにするなんて、まぁなんてあの人は”幻想家”
(080330)
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